深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国(第13話):アナザーストーリー (2)

13.邪馬台国が「南」でなく「東」の間違いだとしたら

 魏志倭人伝にある邪馬台国の方位について、
・・至邪馬台壹国 女王之所都 水行十日陸行一月・・ とある。この「」は「」の間違いだという説は邪馬台国畿内説者に多い。「東」の間違いでなければ、大和の奈良地方が邪馬台国の比定地とはならないからである。
 「東」だとすれば、邪馬台国はどこなのだろうか。まず、どこを起点にした「東」なのかであるが、帯方郡からの使者は間違いなく北九州に来て、伊都国が常駐場所であったのだから、起点は伊都国と考えるのが妥当である。伊都国、現在の糸島市あたりからの東方向であれば、周防灘(すおうなだ)から大阪湾までの瀬戸内地方であり、東北東も東の範疇(はんちゅう)と考えれば、対馬海流(対馬暖流)に沿った日本海沿岸の島根県、鳥取県、京都府の丹後地方及び福井県の若狭湾あたりまでである。この地域に邪馬台国やその連合国が存在したとすれば、それらの居住集落、農耕水利、鍛冶工房などの生活遺跡や戦いなどの遺跡が残っているはずである。そこで、これらの地域の弥生時代遺跡を調べてみた。

弥生時代の遺跡
図37. 九州及び瀬戸内地方の弥生時代の遺跡

 図37がその結果で、瀬戸内地方および西日本海沿岸の弥生時代遺跡である。邪馬台国を「東」とした場合の有力比定地である奈良県は参考までに挿入した。元資料は遺跡ウオーカーから弥生時代遺跡を府県別に抽出して作成したものである。

 図から明らかなように、「東」だとすれば、大和地方にたどり着く前に大きな弥生集落があったことが分かる。最多の弥生遺跡は岡山県の1031ヶ所で、現在の総社市から津山市、勝田郡などを含めた津山盆地あたりに集中している。この地は、島根県の出雲地方と岡山県などの吉備地方を結ぶ直線上の中国山地であり、交流の拠点地であった可能性も高い。次いで多いのが兵庫県で872ヶ所である。兵庫県での最多地区は、現在の「たつの市」や「淡路島」であり、記紀に淡路島が最初に出てくるのも理解できる。肝心の奈良を中心にした畿内大和地方は、兵庫県を除いて、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県及び和歌山県の弥生時代遺跡は非常に少ない。特に奈良県は131ヶ所で、京都府や大阪府よりも少なく、邪馬台国のような大国が存在したとは考えられない。

 したがって、伊都国からの「南」方向に向えば、邪馬台国にたどり着けるという、その「南」が「東」の間違いだとすれば、それは、遺跡の分布から判断して、今の岡山県や兵庫県あたりであると想定できる。具体的には、両県の境界地区である東備西播(とうびせいばん)地区ということになる。この地域であれば、出雲の国譲りの話も隣国とのことであり、国土生みの神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初に生んだとされる淡路島も直近である。

 「東」の間違い説による邪馬台国が「東備西播」地区ということだとすると、魏志倭人伝には、「其南有狗奴國 男子為王・・不屬女王・・
その南に狗奴国があり、男子王で、女王に属していない、とあるので、狗奴国(熊襲国)は、瀬戸内海を渡った高松か徳島、高知あたりになってしまう。次のような記述で、もっとおかしくなる。「・・女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種・・」とあるからである。
意味は、女王国の東へ海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭人(日本人)である。東備西播地区から瀬戸内海を東に向かうと生駒山にぶっつかる。今の三重県や愛知県にたどり着くには、生駒や険しい紀伊山地を越えての陸行が必要になる。ここの記述内容は、邪馬台国奈良説を旨とする人にとっては、もっとおかしくなる。奈良県から東方へ向かうためには、河川舟運で海岸に出てからでないと海を渡ることはできないからである。
 一口に弥生時代と言ったけれども、弥生時代は紀元前400年代から200年代位まで、約600年間のことである。魏志倭人伝には、今から約1800年前の邪馬台国時代には、女王国の他に30か国があり、それより以前には100ヶ国余りがあったとある。先の図37は、主に西日本の弥生時代遺跡数、4958ヶ所の分布であるが、東日本も含めた全国の弥生遺跡は6310ヶ所もある。この図にはない三重県、高知県、徳島県、沖縄県などの遺跡数を加えると、弥生時代の遺跡割合は西日本で高く、特に九州の割合は非常に高い。これは、大陸に近いという地理的要因のためであり、民族間の交流や移住が容易な地であったことを意味している。九州は、やはり有力な邪馬台国の候補地であるといえる。

<つづく>   
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